七年祭の歴史と概要
「七年祭(しちねんまつり)」は、京都の祇園祭や小浜廣嶺神社の祇園祭礼と同様に御霊会の性格を持っています。都市の発展が進むにつれて流行病の蔓延が大きな問題となってきますが、これら疫病の原因を御霊(無実の罪によって亡くなった人々の怨霊)や外国から渡来してきた疫神のしわざであると考え、それらを慰撫するために歌舞芸能を尽くして、神が楽しんでおられる間に立ち去っていただく(七年祭の場合は鳥居浜における足洗いにより、海にお帰りいただく)形式をとる祭が御霊会で、疫病が流行しやすい梅雨から夏にかけて行われる夏祭です。
高浜に人口が集中しはじめるのは逸見昌経による高浜城の築城後であり、祭の起源はそれ以降に求められると考えられますが、祭の形態は逸見昌経・山内一豊・浅野長政などの領主の時代をつうじて形作られていったと考えられます。「七年祭」らしき記述が文献に登場するのは、織豊期の連歌師里村紹巴の紀行文『紹巴道の記』(天橋立紀行)の永禄12年(1569)6月19日の条「高浜祇園会桟敷なとうたれければ一見して明る夜ふかく立出ぬ」で、この年から数えて450年以上の歴史をもつ祭といわれます。
この祭は、十二支の子年から巳年を陽、午年から亥年を陰としてその陰陽の極まった年、則ち巳の年と亥の年を「まつり年」として6年おきに行われる臨時祭礼です。「まつり年」を含めて7年目ごとに行われることから「七年祭」と呼び慣わされています。
祭の期間は夏の盛りの(陽の極まる)旧暦6月、卯の日から酉の日までの7日間ですが、近年は海水浴シーズンを避けて、新暦の6月に行われ現在に至ります。
まつりの初日には、中ノ山・西山・東山の三基の神輿がそれぞれ三ヶ所の御旅所に神幸し、神輿が旅をしている7日間、町内では太刀振・お田植・神楽・屋台囃子・子供踊り・子供太鼓・にわかの各種芸能が連日連夜繰広げられます。
7日間の旅を終えた三基の神輿は御旅所を出発して神社へ還幸の途につきますが、ひとたび神社に戻った神輿は再度観衆の待つ鳥居浜海岸へと巡幸し「足洗い」でフィナーレを迎えます。
佐伎治神社の歴史
佐伎治(さきち)神社は高浜町宮崎、まちの人々からは「妙見さん」の呼び名で親しまれている碎導山の北麓に鎮座します。もとは碎導大明神といい、『延喜式神名帳』に大飯郡七座の内と記される古社で、『若狭国神明帳』には「従三位碎導明神」としてあらわれますが、神社記録等焼失のため創立年代は不詳です。
口碑によると12代景行天皇の御代(西暦71年~130年)に8代孝元天皇の息子・大彦命の孫とされる磐鹿六鴈命(膳氏の遠祖)が若狭国造に任命された時にはすでにあったとされ、およそ1800年以前の創建と推定されます。『若州管内社寺由緖記』には、「園部村園池の森にあった社を高浜村八穴山の天王の社の脇に遷して、氏子の社参に便利を図った」との記述があります。
その後永禄8年(1565)若狭国主武田氏家臣、逸見昌経の高浜城築城に際して現在地に遷されたとされますが、天正年中の遷祀ともいわれています。
祭神は素盞鳴命・稲田姫命・大己貴命の三柱。例祭は毎年10月12・13日。神紋は橘。